Salsa con Sabor,Sentimiento y Ritmo #20 グルーポ・ニーチェとハイロ・ヴァレーラの光と影 #1

1990 Mexico
1990年、グルーポ・ニーチェは初めてのメキシコ公演を行った。ラテンアメリカにとってメキシコは独特の位置にある。それは、地理的にというよりもベネズエラとともにテレビなどのマスメディアの中心で あるのでその影響力はひじょうに大きい。ニューヨーク、プエルトリコ、キューバというサルサを形成する最も基本的なトライアングル(つまりクラーベ文化圏)の外に出るためには、必然的にそうしたメキシコを中心としたプロモーションを行わなければならない。そして逆に、そこを制すればラテンアメリカを制することができるとも言える。ニーチェにとってもそれは同じだっただろう。彼らのこの公演は86年に行ったニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでの公演、89年のフランス、イギリス、ドイツ、スイス、スペインを回ったヨーロッパ公演 を終えた後に行われたもので、まさに満を持して行われている。

公演は当初、4公演を予定していたが、さらに16にまで拡大された。わたしはその年メキシコシティにいて、そこの大学の片隅でスペイン語 を学んでいた。ラジオからは、ディレクターのハイロ・バレーラの歌う “Entrega”、プエルトリコから参加していたティト・ゴメスの”Miserable”が日に何度も繰り返して流れていた。当時のシーンはまだサルサ・ ロマンティカが多く幅を利かせている。エディ・サンティアゴ、デビッ ド・パボンにラロ・ロドリゲス、そこにルイス・エンリケ、オルケスタ・デ・ラ・ルスが加わってくるのがおおよそのヘビーローテーションだっただろうか。もちろんこの年を中心として前後数年にわたるコロンビ アサルサの黄金時代はメキシコにもやってきていて、ニーチェのほかに、グルーポ・カネオ、グルーポ・クラセ、ロス・ティターネスなどもよくかかっている。   

七月になると、街にいっせいにグルーポ・ニーチェの公演を告げるポスターが張りだされ、そして、それは八月になると同時に始まった。わたしは、その夜、“サロン・ロスアンヘレス”というクラブ、と言えば聞こえはいいが、そこはステージとラム酒を振る舞うささやかなカウン ターの他にはまるで体育館のようになにもない空間で、後方にあるトイレからはつねに異臭が漂ってきている、そこにグルーポ・ニーチェを見に出かけた。ゲレロというメキシコシティの下町にあるそのクラブの壁には、セリア・クルース在籍当時のソノーラ・マタンセラの写真が一面に繰り広げられている。それは、もちろんかつてその「小屋」のような 場所で彼らが演奏していたことの証拠である。夕刻頃から、マタンセラ の時代からダンスをたしなんできた老夫婦が当時の曲で踊っている。メレンゲやクンビアを織り交ぜるより若い前座が演奏をつづけてゆくにつ れて観客は膨れあがりニーチェが出演する夜半近くにはほとんど踊るスペースもなくなってきている。

サルサの原風景
その年は、イタリアでサッカーのワールドカップが行われた年で、ニーチェのメンバーは練習に使う赤いベストのような衣装を身につけて登場した。リードボーカルはティト・ゴメス。 新しく加入したハビエル・バスケスに、適宜ディレクターのハイロ・バレーラもボーカルに加わる。それは、まったく信じられないような演奏 で、ショーアップされた舞台が多いサルサのなかで、聴き手に何かを提供するというより、何か過剰に膨れあがったエネルギーをぶつけてきているようだった。それはまるでハードコアなロックのライブ会場に居合わせているような気分だった。

一般的には、87年頃を頂点とする歌謡化したサルサ、サルサ・ロマンティカとともにサルサはその原初のスピリッツを失い「終わっている」とされていた。しかしその夜わたしは、けっしてそんなことはあり得ないことを確信している。会場の多くがは じめてニーチェを体験するにもかかわらず、すでに「ニーチェマニア」と化していた。そしてその大半がその地区の商店や自動車修理の工場な どで働いていて、週末には多少身なりも整えて踊りにくる。ニューヨー クのなどの名の通ったクラブではすっかり忘れ去られてしまった、サルサがその始まりに持っていたような濃密な空気をそこは保存しており、それは今でもわたし自身のサルサの原風景として記憶されている。

(続く)

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旧友Inoue Takeshiさんの雑誌Latinaへの記事を了解をいただきUPしています。

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